
この世界のすべては、あなた自身の「心」からうまれたのだ。
私は、奈良・興福寺、北圓堂”弥勒如来”に魅了された。そしてミロク気功整体院のご本尊と決めた。そんな関係で多川俊映興福寺貫首の仏教講座を毎月第2土曜日に拝聴するようになった。此度、貫首著「唯識三十頌を読む」を拝読した。究極のところ,ものごとやことがらを分別し分析して認識するのではなく、その本質を瞬時に見抜くということ。究竟の世界は無漏であり、不思議であり、善であり常であり、安楽である。(無漏は煩悩に汚されないことで、清浄を意味する) (善は悪への移行のない完璧な善)。そして寂黙である。、、、唯識は南龍気功術の基本に通じると私は感じた。基本に通逹すれば達人である。南龍気功術は古神道に由来する。明治まで我が日本国は神仏混淆であった。インドに発する仏教なかんずく法相宗唯識の実践が気功治療の効果を高めると私は覚したのである。寂黙、言葉による理解は一見明晰だが、言葉の束縛や限界があり、言葉による誤った誘導もある。そんな言葉を超え、智慧の力で事柄の本質を一気に見通すのは、まさに寂黙という他ない。
このコメントも言葉であり本質の周囲をうろついている。
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