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鑑真大和上「我若し終に亡ぜんときは、願わくは坐して死なん」

鑑真大和上は、天平宝字七年(763)五月六日 西方に向かって結跏趺坐するとそのまま亡くなった。七十六歳であった。最後のお言葉が「願わくは坐して死なん!」と伝えられる。    さて、吉村晴夫さんの文章から、、、普照は大分酔っていた。 「あれは唐にきてから、十年目の、ちょうど今日のような晩秋のことで、私と栄叡は大明寺に着き至福の時でした」  大和上の足もとにぬかずき、

「仏法東流して日本国に至れり。その法ありといえども伝法に人なし。願わくば和上、誰か御門下の方、東遊して化を興したまえ」と  

大和上、答えていわ曰く。 「山川域を異にすれども、風月は天を同じうす」。これを仏子に寄せ、共に来縁を結ばんと。これ仏法興隆に有縁の国なり。今、「我が同法の衆中に、誰かこの遠請に応じて日本国に向い、法を伝ふるものありや」と。  

一座の衆僧みな黙して答うるものなきのみ。しばらくして、弟子の祥彦(しょうげん)曰く。「かの国は蒼波遠く、百に一度もたどりつくに至るなし」

 遮って、和上、曰く。

「是(こ)は法のためなり、何ぞ身命を惜しまん」。「諸人・・・、去(ゆ)かずば、われ即ち去かんのみ」

 僧祥彦、曰く。 「和上もし去かば、彦もまた、随ひて去かんと」  二十一人の弟子が和上に従った。  時に、鑑真和上五十五歳の秋であった。あれからすでに五回日本行きを決行したが、全て失敗に終わった。 ようやく日本の地を踏んだのは、天平勝宝五年(753)のこと。鑑真はすえでに六十五歳であった。翌六年、鑑真は奈良の都へ入り、東大寺に戒壇を設けて聖武上皇、孝謙天皇、400人の沙弥・僧・尼僧に日本国初の授戒をされた。唐招提寺を建立して、日本の律宗の開祖となられた。