
生死のなかに仏あれば生死なし 道元禅師
平塚景堂(相国寺塔頭養源院住職)著
「内なる風景へ」
弱者の思想 p318-p324
ひとはみな、だれしも弱者だ。
これが宗教的立場である。
人間というものはまず徹底的に弱者であり、ゼロだ、とみる。
生命にはきちっとした約束がある。種の保存という約束である。この制約のみがあらゆる生命に平等に課せられた責務である。その理由は生命が基本的に弱者だからだ。弱者としての個の生命は、最低限殺生しあうことが許されてあるのだ。
さらに種の保存とは、親が子のために犠牲になる、あらゆる動植物は一世代の個を全うして終わる。
人間のように個としての生命だけが肥大して、生命は地球よりも重いという言葉を自己保存のためにのみ解釈し(異常な健康ブーム、アンチエージングの流行)、個の生命に無限の価値が付与されたとき、内なる「いのち」を見失うのである。
内なる「いのち」は、そのものが個人の意思や価値観から独立している。内なる「いのち」は、地球の重さと比較するような人間中心の価値観とは無縁である。
宗教とはその内なる「いのち」無価値性、空性から初めて語られるべきものである。生命尊重、人道主義、世界平和といったスローガンとは、本質的に無縁である。
ひとはみな、だれしも弱者だ。
その真の意味は、生滅ということの直視なるものであり、生死そのもののことである。
「わたしは、生滅という弱者だ」という確信が、狂おしい執着から解放される唯一の自由性なのである。内なる「いのち」を全身全霊で感得したことなのである。それはまったく新しい生命観の受容である。
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
「新約聖書」パウロのガラテヤ人への手紙2-20
その日以来、パウロは物質的なものや現世的な権勢が全く色あせて無価値になり、その代わりに輝くような魂の世界が見え始めた、、、、
オギャーというまっさらな第一声が、不退転の生への意志であるが、それは膨大な社会情報を、相対的価値観をこれから背負ってゆく覚悟のこえである。
生死のなかに仏あれば生死なし と道元はいう。
生死という個の生命に、もとより仏という内なる「いのち」があるから生死などない、と。
弱者の思想が宗教的立場であるゆえんである。
発行:禪文化研究所 2007/7/19初版
内なる風景へ -禅の現在型をさぐる
著者:平塚景堂

建仁僧堂 大悟堂にて撮影
死生は昼夜の道なり、何をか好み何をか悪まん 熊沢蕃山「集羲和書」
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日本古武道伝_南龍整体術_ミロク気功整体院 河本馨
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