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ぬしなくて見聞覚知する人をいき仏とはこれをいふなり 至道無難禅師

「迷いてはこの身に使われ、悟りてはこの身を使う」至道無難

至道無難禅師は建仁素堂老漢から教えて頂いたお坊さんであります。禅師は伊吹山の山麓、中山道関ヶ原の代々続いた旅籠の当主でお泊りになる愚堂国師に師事し「無一物」を公安にして47歳で允可を頂かれ52歳の時、愚堂国師をお見送りに出てそのまま江戸まで同行し出家されたんです。院長は建仁僧堂で毎年蠟八大接心に座らしていただいていたご縁で素堂老漢に可愛がっていただき朝日放送在職中の52歳で床屋で丸坊主にしてもらいました。以来75歳の今日坊主頭です。

「主なくて見聞覚知する人をいき仏とはこれをいふなり」至道無難

対象を見たり聞いたり、感触したりするときに、「主」が無いということは、主観と客観とが完全に一つになっていることです。主観と客観の完全一体を頭ではなく体で体得できるのが坐禅のありがたい効用ではないでしょうか?密教の全宇宙的感覚(曼荼羅)とも共通するように思います。

南龍整体術ミロク気功整体院の院長河本馨の気功は技巧の上達は当然ながら人格的な向上を目指して日夜治療に邁進して居ります。

医療から見放された患者さんのご相談をお受けします。

日本古武道伝_ 南龍整体術ミロク気功整体院 河本馨