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大西良慶貫主著「坐禅和讃講話」を読む

故_清水寺貫主大西良慶師は白隠禅師の200年遠忌に松蔭寺へ詣でられた。その時の拈香の偈

白隠禅師二百回忌拈香偈

       良慶

秀峯富士日東奇

正宗大仙萬世師

隻手一関年二百

松蔭寺畔道風滋

 讃歎随喜する人_「はあ、結構なことやなー」と言うたら讃歎随喜になる。自分はできないでも随喜する。

仏さまになるつもりで坐禅する_

人間は引っかかりやすい。何でそんなに引っかかるのかと言うたら、根本の自分というものを非常に可愛がるからなの、だから、謗られたら腹が立つ、褒められたら嬉しゅうなるのは、自分が可愛いので、そないなっていくの。それが禅定に入りますると、褒められたかて、謗られたかてビクともしないという平静を保つという力が湧いてくる。これやないと仏さんになれぬというので、白隠さんは「禅定をやらないかん、禅定をやらないかん」と、こない言わはるの。

摩訶衍の禅定と言うたらそういうことを言やはる。摩訶衍というのが今言うた出発点の話。仏さまになるという願心で坐禅せなあかん。

 因果一如_本当の信心というものは、仏さまの心構えを真似するという、それから入らな本当の門に入らへん。そこに因果というものが歴然として私なし。因果というものは崩すことのできない難しいもの、それが因果一如やな。

歌ふも舞ふも法の声_歌ふも舞ふも」というのは味のあることをいう。「うたふも」というのは、これは人間の世界の味を出したところをいうの。悟りを開いた者でも、人間の世界に生きている以上は味よう生きないかん。京言葉に喧嘩なし。「あんさんが、あんさんが」では喧嘩にならへん。この前に耳がだんだん遠うなったときに、ある学者の先生に「先生、わしもうあきまへんね。だんだん耳遠うなって、そばへ行かな聞こえしまへんね」こない言うたら、「それは君、当たり前やないか。百近くになっていてそのくらいのこと当たり前や」「そうですか。えらいすみまへん」。この先生、本当のこと言う人やな、と思う。「それはご不自由でしょう」と、言やはったら「先生、親切や」と、思う。それが法の声になる。

仏法が腹にこなれたら、人間の世界というものは楽園であるし、花の咲いたような面白い世界なの。

 お寺参りの本筋は信心_「三昧無碍の空ひろく」もうほかのことは目にも入らぬし耳にも入らぬ、それよりほかに心が動かぬというのを三昧という。禅定の場合を三昧という。前から言うとうり、仏教は仏さまになるという教えなの。

常識の世界では迷う_三昧そして禅定から出てくる知恵が「四智円明」なの。仏さんの知恵が四つある。名が難しいが、成所作智、妙観察智、平等性智、大円鏡智、と。

仏法は人間のアク抜き_人間の持ち合わせの癖というものは、そんな良いものばっかりではない。人さまの前で言えぬような憎い心やら、いろいろな汚いものが相当たくさんあるわけ。それが三毒なの。欲と腹立ちと愚痴。好きは欲と現れ、嫌いは腹立ちと現れ、苦しみや怖がるやつは愚痴と現れる。これが人間の常識の三つの毒素なの。これが昂じて来ますと、心の中でそれがみなわざをする。心の中でわざしたのは心の中だけで済まずに、言葉に現れ、行いにそれが現れると、これは悪い結果になる。というわけであるから、禅定に入ってアク抜きをしてもらわないかん。アクというものは人間同士の中では味のいいものですわ。アクのないものに、うまいものってあらへん。うまいというものは、そのもののアクにある。女が女らしいのは女のアクなの。男が男らしいのは男のアクなの。ですから男らしいのと女らしいというものが、それがまぐあう。これが生きているものの当たり前なの。それがアクなの。ところが、うまい代わりに、どんなものでもアクが強かったらエグイ。ですから、うまく食べようとする場合には、そのアク抜きということが必要になってくる。

禅宗では大死一番、_死んでしまえと、やかましゅう言やはる。何もほんまに首くくれということではない。人間は「我」で生きているから、その我を打ち切ってしまえということを言わはるの。それを大死一番して来い、一遍人間の常識を打ち切ってしまえ、一切を空にしてしまえと言うの。

それで「四智円明の月さえん」という悟りを開いて、仏さまの知恵を成就するには、行を積まぬことには、話だけでは、それは出てきやへん。この「三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん」というのは、坐禅の一番結晶の、一番えらいところの、一番有難いところなの。

霊の世界の正体_そこでこれができ上ったら、山の頂上へ登り切ったときの話になる。登り切って上にばっかりいたらあかん。下って来な間に合わへん。仏さまになったきりで、世の中へ出てこなんだら値打ちない。また人間の世界へ出てきて働かないかん。一遍人間の世界を離れてその位まで行って、今度は再び人間の世界へ帰ってくるということでなければ、仏さまの仕事がでけへん。そのことは次の四句に出たる。

この時何をか求むべき」_知恵が明らかになって、妙観察智、平等性智、大円鏡智、というような明朗な天地に行けるようになったら一体何を注文する。仏になるもならぬもあらへんやないか。求むるもの何もないやないか。寂滅現前するゆゑに」寂滅いうたら、モヤモヤしたものがないようになったのをいう。お互いの胸の中には、好きや嫌いや、良い悪い、損得いうようなものがモヤモヤして入りきれぬほどある。けど、寂滅現前で、もうそういうものを一切打ち切ってしまって、無垢清浄の世界に自分が落ち着いたら、極楽も地獄も善悪も何もあらへん。あそこに地獄があって、ここに極楽があるというのは、これは人間の世界で言うてる話で、そんなものはあらへん。何でか言うたら、悟りを開いた人の前には寂滅の世界しかあらへん。ここは修業が成就せな分からん

「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」_